2000年代からの長い低迷から抜け出し、復活を遂げるNEC。セキュリティーや通信などの強みを生かし、ITとインフラを主軸とした会社へと脱皮しつつある。25年度までの中期経営計画も「方向性は間違っていない」と語る。

(聞き手は 本誌編集長 磯貝 高行)

(写真=的野 弘路)
(写真=的野 弘路)
PROFILE

森田隆之[もりた・たかゆき]氏
1960年生まれ。大阪府出身。83年に東京大学法学部を卒業しNEC入社。米国駐在時、NEC初の本格的なM&A(合併・買収)である独シーメンスの私設交換機事業買収に携わる。2002年に事業開発部長、11年からは執行役員として海外部門を担当。16年にはチーフ・グローバル・オフィサー(CGO)としてM&A戦略立案などを主導。18年副社長兼最高財務責任者(CFO)に就任、21年4月から現職。趣味は読書。将棋観戦をたしなむ「観る将」でもある。

2000年前後からの長い低迷を脱し成長路線に転換していますが、NECはこの20年間でどのように変わりましたか。

 やっと「1つの会社」になりつつあると感じています。日本の大企業はサイロ化、つまり事業部門ごとの縦割りが強く、横の連携が取れていないことが多いですよね。

 NECもそうでした。経営幹部が「あの人は通信出身」とか「デバイス出身」などと言って、事業ごとに分かれている印象がありました。今は多くの幹部が複数の部門を経験していて、外部から入社した役員も当たり前。マネジメントのチームでも、会社全体のことを考える人材が中心になってきました。

 ただ振り返ると、そうした文化の醸成は一筋縄でいくものではなかったですね。リーマン・ショックなどを経た12年の経営会議で、今後どうするんだ、俺たちは会社に残っていいのかといった議論をしたときのことを覚えています。

 出席者はまず自己紹介から始めるような状況で、自分の部門に文句を言われたくないから、黙っている。それぞれが何を大切にしているのかを話し合い、互いを知るようになっていくと、皆が会社全体を考える雰囲気に変わってきたんですね。それでも一代ではだめで、前任の新野隆や自分の時期になって、ようやく変化してきました。

組織としてバラバラだった

森田社長ご自身は海外経験が長いですが、当時のNECをどのように見ていましたか。

 ひどい状態で大変でしたよ。組織が疲弊していました。私が1983年にNECに入社した頃は、毎年10%以上成長していて、工場もどんどん広げていました。しかし、IT(情報技術)バブルなどを経た2000年代には国内外で人員削減を伴う構造改革がありました。

 11年に私が海外事業の部門長になった時には、同部門には国内に400人くらいしかいなかった。しかもエンジニアはゼロ。海外法人は赤字のところばかりだし、日本からは「(海外法人は)それぞれで勝手に食っていけ」みたいに言われていた状態で、組織としてバラバラでした。

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