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チェルノブイリ原子力発電所事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
チェルノブイリ原子力発電所事故
チェルノブイリ原子力発電所発電施設(2007年)
場所 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の旗 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国
キエフ州プリピャチ
(現在の ウクライナ キーウ州プリピャチ)
座標
北緯51度23分22秒 東経30度5分56秒 / 北緯51.38944度 東経30.09889度 / 51.38944; 30.09889座標: 北緯51度23分22秒 東経30度5分56秒 / 北緯51.38944度 東経30.09889度 / 51.38944; 30.09889
日付 1986年4月26日
午前1時23分 (UTC+3)
概要 チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故
原因
  • 制御棒など根本的設計の欠陥
  • 運転員への不十分な教育
  • 特殊な運転を行ったため、事態を予測できなかった
  • 低出力では不安定な炉で低出力運転を継続
  • 計画とは異なる状況になったが、実験を強行
  • 実験のため、安全装置を無効
死亡者 早期:30人又は31人[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]、長期:4,000人[11](異論有)
負傷者 不明
被害者 事故を起点として半径30km圏内の強制移住等:11万6000人~13万5000人[12][13][14][15][9][16]。25万人や30万人ほどと言う資料もあり[17][18]
損害 爆発チェルノブイリ原子力発電所4号炉
放棄チェルノブイリプリピャチ
他多数
対処 4号炉を「石棺」及び新安全閉じ込め構造物で封じ込め
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チェルノブイリ原子力発電所の位置。左上囲み内の赤い印、キーウの北西。赤い部分はウクライナ、その北はベラルーシ
チェルノブイリ原子力発電所(中央付近)周辺の衛星画像。中央の黒い部分は冷却水用の池。その左上に発電所がある。1997年撮影
チェルノブイリ原子力発電所(中央奥)の遠景

チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ、ウクライナ語: Чорнобильська катастрофаロシア語: Авария на Чернобыльской АЭС: Chernobyl disaster)は、1986年4月26日午前1時23分(モスクワ標準時)に、ソビエト連邦構成国であるウクライナ・ソビエト社会主義共和国チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故である。のちに決められた国際原子力事象評価尺度(INES)では深刻な事故を示すレベル7に分類された。

概要[編集]

事故当時、チェルノブイリ原子力発電所では4つの原子炉が稼働中で、さらに2つが建設中だった[19]。原子炉はいずれもソ連が独自に開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉で、熱出力が320万キロワット、電気出力が100万キロワットのRBMK-1000であった[19]

黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉は、重水を使わなくても運用できるが高出力、低出力の時に炉は不安定となる[20]

1986年4月25日、4号炉は保守点検に向けて原子炉を止める作業中で、この機会を使っていくつかの試験を予定していた[21]。黒鉛制御棒型の炉において、核分裂により生じた中性子を吸収、核の連鎖反応を防ぐのは炉心内を循環する冷却水である。非常時に備え冷却水循環ポンプ用ディーゼル発電機は有るものの、起動から、循環水ポンプが必要な出力になるまでに数十秒を要する。そこで、冷却水用電源ロスからディーゼル発電機の起動〜十分な出力を得るまでに必要な電力を、それまで発電を行っていたタービン発電機の慣性回転による発電で確保する実験を行っている最中だった[22]

実験は予定よりも大幅に遅れて実施されていたが、翌4月26日午前1時23分、原子炉は暴走し、水蒸気爆発を起こして破壊された[23][24][25]。爆発によって4号炉の原子炉建屋は破壊された上、減速材として使用されていた黒鉛が建屋の瓦礫と共に辺りに撒き散らされて30か所以上で火災が発生した[24][26]。爆発とその後の火災により、14エクサベクレル放射性物質大気中に放出された[27]

消防隊の作業の結果、周辺の火災は26日午前6時ごろには鎮火したが、原子炉では黒鉛と溶けた燃料が火災を起こしていた[28][29]。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。

  1. 原子炉を消火し核分裂を抑制するために、砂やホウ素をヘリコプターで4号炉に投下した[30][31]。作業は4月27日から始まり5月10日までに、2200トンを投下した[30][32]。最初に活動したパイロットなど30人は間もなく治療のためキーウへ送られた[33]
  2. 放射線を遮断するため、同様に2000トン又は2400トンのを投下した[30][34]
  3. 水蒸気爆発を防ぐため、圧力抑制プールから水を排出した。作業は発電所の職員や消防士が行った[33]。一部の溶けた燃料は排水が終わる前に圧力抑制プールへ達したが、水蒸気爆発という規模の現象は起きなかった[35]
  4. 溶けた燃料を冷却するため、原子炉の下に液体窒素を注入した。注入したときにはすでに炉心から燃料が流出していた[36]

ソ連政府の報告書によれば、5月6日までに放射性物質の大規模な流出は終息した[37][38]。上記の措置がどの程度有効であったのかについては、評価が分かれている[28]。ヘリコプターを使った応急措置の効果については、4月27日から投下開始後、4月30日までは一時的に放射線量が下がった[39]。しかし、その後放射線量が上昇した[39]。そして、爆発時天井のコンクリートは吹き上げられ斜めの状態になっていたため、投下物はほとんど命中せず、むしろ約5000トンという重さによって、原子炉の土台が崩れてしまう危険があることが発覚し、ヘリコプターによる投下は効果が薄かったとみられる[39]

西側諸国が異常に気付いたのは、事故発生から2日が経過したあとだった[40]。4月28日の朝、スウェーデンフォルスマルク原子力発電所で、職員の靴から高線量の放射性物質が検出されたことが発覚のきっかけとなった[40]。また、同発電所から200 km離れた別の発電所からも、高線量の放射性物質が検出された[41]。28日中にはスウェーデン政府の在モスクワ大使館の外交官がソ連政府と接触し、ソ連内で原子力事故が発生した事実がないか問い合わせた[42][43]。当初、ソ連政府はその可能性を否定する回答を行ったが、スウェーデン側から国際原子力機関(IAEA)に事態を報告する意向を伝えられると、一転してチェルノブイリ原発で事故が発生した事実を認めた[42]。チェルノブイリ原発での事故を報道する第一報はモスクワ放送が、4月28日午後8時に、「チェルノブイリ原子力発電所で事故が起きました。原子炉の一つに損害が生じました。事故の影響を防ぐための措置が取られています。被害者は救援を受けています。政府委員会が設立されました。」という簡潔な内容で、1時間後には英語で同内容の放送を行なったが、それに加えて西側でこれまでに起きた原子力事故を一つずつ紹介して報道するなどした[43]。また、この時の放送では、いつ事故が起きたのかについての説明はなかった[43]。モスクワ放送での一報を受けて、UPI通信社は、2000人が事故で死亡したと報道し、さらにはアメリカのNBCも、国防総省の情報を元として、2000人死亡が確実な情報であると報道した[44]

放射性物質は風に乗って北半球の全域に拡散した。日本では、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された[45]

発電所に近いプリピャチから住民の避難が始まったのは、事故発生から36時間が過ぎた27日の午後1時50分であった[13]。市当局は、避難時に市民に対して3日分の食料を携帯するよう命令したため、市民は3日程度で帰ってくるものだと考えていた[46]。午後2時から、1100台のバスで、約5万人の住民は避難を開始し、同日午後4時20分には、プリピャチ市は無人となった[13]。それまで住民には事故についての正確な情報が与えられず、約5万人の人々が、飛散した放射性物質による汚染の事実を知らぬまま通常の生活を送っていた[47][48]。中には、結婚式を執り行っていた新郎新婦もいた[49]。それから1週間後の5月2日には、原発から30 km圏内にあるプリピャチ以外の地域でも避難が開始された[48]。避難した人数は文献により様々であるが、13万5000人とする文献が多数であるが[14][12][17]


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